哲学辞典 (は〜ほ)
 http://www.tobari-kaikei.com/cgi-bin/login.cgi 更新君
 

 


 

              

       

バートアンドラッセルとハイデガー

ラッセルが非常にクリアでわかりやすいのに対し、ハイデガーは難解。私自身は二人を警戒しています。ラッセルは馬鹿なことを言っているとはっきりわかる。ハイデガーの場合は、わかりきったことを言っているのに、我々はそれに気付けなかったりする。歴史にのこり長持ちするためには難解でなければいけない。
(もうすぐ絶滅するという書物について、エーコ・カリエール・工藤妙子訳・阪急コミニュケーション版)

ハイデガー

ハイデガーの思索の筋道を早くから決定していたのは、「有」と「言葉」であったことは、ハイデガー自身認めているが、それだからこそ逆に、両者の論及は背後にとどまってしまった。「有」については「有と時」を1927年に発表しているが、ハイデガー自身、「この書物の欠陥は余りにも早く遠くまで行き過ぎてしまったこと」と認めている。「言葉」については、ヘルダーリンの詩の解明や論理学の講義、ロゴスの論及など、言葉の問題が中核となった思索が行われてきたが、「言葉」の表題を正面に掲げた本書(言葉への途上)をまとめたのは時期的にはずっと後の1959年で、「有と時」を発表してから三十年以上も経ってからのことである。
言葉への途上・ハイデガー全集第12巻・亀山健吉、グルムート・グロス訳・創文社)
参考人間存在論

パースペクティヴィズム

過去を美化する言説は、ある時点からの眺望を普遍化する「眺望固定病」である
パースペクティヴィズムとは、「遠近法」などと訳されるパースペクティヴからきた言葉だ。
遠近法は、ある視点からの三次元的な眺望を二次元に固定・定着する絵画の手法だが、或る視点もしくは時点からの眺望を未来永劫、どこからみても成り立つものとして固定してしまうのがパースペクティヴィズムである

(哲学ワンダーランド・貫成人・php研究所)


パラドックス

通念に反する。ギリシャ語
1.
正しいと思われる前提から、欠陥の見当たらない推論をしたとき、他の通常の論理的
判断や経験と矛盾したり衝突したりする結論が生じるケース。(理性が経験と矛盾)「アキレスと亀」
2.こ
の言明は偽である。(理性自体の矛盾)
3.イエス・キリストは永遠で全知の神であると同時に、死を免れ得ないに人間
でもあった。
(経験が理性と矛盾する)経験=信仰の飛躍。(キエルケゴール)
明らかに正しいと思えたことの吟味をせまる点に力と魅力がある。
(哲学の道具箱・ジュリアン・バッジーニ他・共立出版)

般若心経

唐三藏法師玄奘譯

觀自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。是故空中。無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味触法。無眼界乃至無意識界。無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。無知亦無得。以無所得故。菩提薩多。依般若波羅蜜多故。心無罫礙。無罫礙故。無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。究境涅槃。三世諸佛。依般若波羅蜜多故。得阿褥多羅三獏三菩提。故知般若波羅蜜多。是大神咒。是大明咒。是無上咒。是無等等咒。能除一切苦。真実不虚故。説般若波羅蜜多咒。即説咒曰

 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提僧莎訶

 

[チベットの『般若心経』

石濱裕美子訳



 

インドの言葉でアーリヤ・バガバティ・プラジュニャー・パーラミター・フリダヤ、チベットの言葉で、『聖なる世尊の悟りの智慧の究極というものの心髄』

[導入部]


 一切の仏と菩薩とに敬礼します。
 このように私は聴きました。あるとき、世にも尊き方 (世尊) が王舎城の霊鷲山に、出家者(比丘 )の大僧団(僧伽 )と菩薩の大僧団といっしょにおわしましたその時に、世尊は「深淵なる光」という法名の瞑想(三昧)に等しく入られました(等至 )。

 また、その時大いなる勇猛心をもてる菩薩である、聖観自在は[仏が]深遠なる「悟りの智慧の究極」(智慧波羅蜜)を行なうのをご覧になって、「身心を構成する五つの要素」(五蘊 )もその本質においては空であるとご覧になったのである。

 それから、仏の力によって長老シャーリプトラ (舎利子) は大いなる勇猛心をもてる菩薩観自在にこのようにもうしあげました。
 「一族の男子、一族の女子で、深淵なる仏の悟りの智慧の究極の行ないを行じようと欲するものは、どのように学ぶべきなのでしょうか。」そのように申し上げたところ、大いなる勇猛心をもてる聖観自在は長老シャーリプトラにこのようにもうしあげました。

[身体と心を構成する五つの要素(五蘊)が空であること]


 「シャーリプトラよ。一族の男子、一族の女子で、深淵なる「悟りの智慧の究極」の行ないを行じようとするものはこのように見るべきである。すなわち、「身心を構成する五つの要素」(五蘊)も本質は「実体がない」 (空) と見るのである。
 「かたち」(色 )は「[関係の中にあるが故に] 実体がない」のである。「実体がない」ことが「かたち」である。「かたち」を抜きにして「実体がない」ことはなく、「実体がない」ことを抜きにして「かたち」はない。

 同様に、「感受作用」(受 )、「識別作用」()、「意志作用」()、「認識作用」( )なども「実体がない」のである。


 シャーリプトラよ。そのようであるので、いっさいの現象は空なる性質を持っているのである。すなわち、性質もなく、生じることもなく、滅することもないのである。汚れもなく、汚れがないこともないのである。減ることもなく、増える)こともないのである。
 シャーリプトラよ。そのようであるので、「実体がない」には「かたち」はなく、「感受作用」はなく、「識別作用」はなく、「意志作用」はなく、「認識作用」はないのである。

[十二の認識領域が空であること]

眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体(身 )もなく、心(意 )もないのである。「いろかたち」(色)もなく、「音」(声 )もなく、匂い(香 )もなく、味もなく、触覚の対象(触 )もなく、「現象」(法 )もないのである。

[十八の認識領域(十八界)が空であること]

 眼界もなく、眼識界もなく、以下同様に [十八界の二項目目以下は省略され、最後の項目である]、意界もなく、意識界もないのである。

[十二支縁起が空であること]

無明もなく、無明が尽きることもなく、以下同様に [十二支縁起の二項目目以下が省略され、最後の項目である] 老死もなく、老死がつきることもないのである。

[四つの聖なる真理も空であること]

 苦の真理もなく、苦の原因の真理もなく、苦を滅するという真理もなく、苦を滅するための道という真理もないのである。

まとめ

色(gzugs)
声(sgra)
香(dri)
味(ro)
触(reg bya)
法(chos)
眼(mig)
耳(rna)
鼻(sna)
舌(lce)
身(lus)
意(yid)
眼識(mig gi rnam par shes pa)
耳識(rna 〜)
鼻識(sna 〜)
舌識(lce 〜)
身識(lus 〜)
意識(yid 〜)
<−−−−十二処−−−−>
<−−−−−−−−−−−十八界−−−−−−−−−−−−>

純粋意識もなく、獲得するものでもなく、獲得するものでないこともないのである。
 シャーリプトラよ。そのようであるので、もろもろの菩薩は獲得するものでないために、「悟りの智慧の究極」によって、心に煩悩がないために、恐れがないのである。誤った考えを超克して、「憂いを超克した」(涅槃 という究極[の境地]にいるのである。
 現在・過去・未来(三時 )におわします一切の仏も「悟りの智慧の究極」によって無上にして清浄に完全なる悟りを明かに完成して仏となったのである。
 そのようであるので、「悟りの智慧の究極」の真言、大いなる明知の真言、無上なる真言、比類なき真言、一切の苦しみを鎮めしめる真言は、偽りなく、真実であると知るべきなのである。「悟りの智慧の究極」の真言を申し上げる。

[真言]


 ta tya tha/ ga te/ ga te/ pa ra ga te/ pa ra sam ga te/ bodhi sv'a h'a/


 シャーリプトラよ。偉大なる勇猛心をもつ菩薩は、深遠なる「悟りの智慧の究極」をそのように学ぶべきなのである。

[結尾]


 それから、世尊はその瞑想より意識を立ち上げて、偉大なる勇猛心をもてる菩薩聖観自在にむかって「すばらしい。」と[お言葉を]授け「素晴らしい。素晴らしい。一族の男子よ。そのようである。そのようである。汝が説いたごとくに深遠なる「悟りの智慧の究極」を行ずるべきである。如来も喜んでいる。世尊はそのようにお言葉を賜られて、長老シャーリプトラと菩薩聖観自在と一切の取巻き、すなわち天人、阿修羅、ガンダルヴァなどの世間のものは喜んで、世尊がおっしゃられたことを賛嘆なさったのである。
 『世尊の悟りの智慧の究極の心髄』という大乗経典は終ったのである。

[コロフォン]


 インドの僧院長ヴィマラミトラと翻訳家比丘リンチェンデが翻訳して、
 校訂翻訳家ゲロとナムカー等が[訳語を]決定したのである

チベット学への招待HPより  石浜祐美子)より

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般若

ブラジュニャーの音訳。「真実智」「根本智」人間の分析的な知恵とは違う
分別智、人間の分析的な知恵は「ヴイジュニャーナ「の「ヴイ」という接頭語は」分割する」の意味。「花を花と見て、花と見ず」
紀野一義・「般若心経」を読む・講談社)

波羅蜜多

1.「パーラミター」の音訳。パーラム(彼岸に)+イタ(至れる)
2.「パーラミ」(彼岸に至れる)+ター(状態)、完成に到達せること
般若波羅蜜多を「知恵の完成」と訳。
紀野一義・「般若心経」を読む・講談社)

観自在

アヴァローキテシュバァラを、「観」(アヴァローキタ)+「自在」(イーシュヴァラ)の合成語と見る。「観自在」と訳出し知恵を強調
紀野一義・「般若心経」を読む・講談社)

勧:人から勧められる。勧めることが絶対に重要。
歓:心の中に映らないと歓びを表面に出すことができない。
観:心のなかに感ずること。
勧められ、歓びを感じ、心として「観」をを支える

紀野一義・「般若心経」を読む・講談社)

菩薩

ボーディサッタ(菩薩)菩薩のような人と菩薩とは違う。
声聞:聖者の教えを信受した者。
縁覚:天地の理法を自ら会得した者。
「道路不同、会見無期」違った道を行ったのでは永久に会うことはない。菩薩に会おうとする者は菩薩の道を行かなくてはならない。鈴を鳴らして欲界に沈みこまぬよう戒め、ただ一人行かなくてはならない。
紀野一義・「般若心経」を読む・講談社)

真実

「もはやそれ以上何者にも還元され得ない一つの本源的な事象」「沈黙」「愛」「真心」「死」(マックス・ピカート)。死の重さで計られるようなものが真実である。「さまよえるオランダ人」
紀野一義・「般若心経」を読む・講談社)

般若波羅蜜多

「般若波羅蜜多」とは、ずばり瞑想を意味しているのだ」パグワン。大悟した禅者は、師のもとへ赴いて「見解」を呈するが、それはおおむね詩のごときものである。大悟の非体験性、非論理性がよく現れている。それが「さとり」である。そういうものが「瞑想」であり、そういうものが「深般若波羅蜜多」であり、そういうものが「真実」である。真実というものは突如としてくる。一瞬のうちにやってきて、私とひとつになってしまう。その一瞬は「今」というものだろう。一瞬一瞬に永遠を感じ無限を感じるのだ。
紀野一義・「般若心経」を読む・講談社)

行時

行を行じつつある時に(チャリヤーム・チャラマーノ)「行行」慈雲尊者。行を行ずる。

盤山

心月孤円 光呑万象 光非照境 境亦非存

生論的誤謬

信念の由来が信頼性に乏しいからといって、正当性を欠いているとみなすみなす十分な理由にならない。由来と正当化の間に必然的な繫がりははない。
(哲学の道具箱・ジュリアン・バッジーニ他・共立出版)

背理法

「君がXと信じるなら、Yと言うことを信じざるを得ないわけだ。でもYは馬鹿げている。
さて、君は本当にXと信じているのかい?」プラトン、「国家」8
(哲学の道具箱・ジュリアン・バッジーニ他・共立出版)


 

 

 

 

 

批判

われわれの客観的な推測知は、いつでも一人の人間が修得できるところをはるかに超えでている。それゆえ、いかなる権威も存在しない。このことは、専門領域の範囲の内部においてもあてはまる、誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする。(またかれらはわれわれを必要とする)ということ、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚さらねばならない。ポパー
唯識思想論考・袴谷憲昭・大蔵出版)

百亳 びゃくごう

眉間から光が出る。
人の顔をひよいと見たとき、どこを見るか。私はいつも眉間のはれやかさを見るのである。顔の相がすっきりしている人は、心身ともに健康なのである。しかしそれは、よく見ているとわからなくなる。最初にパッと見て取らなくてはならぬのである。
(ある禅者の夜話 正法眼蔵隋聞記 紀野一義 筑摩書房)

比較思想

比較思想研究は、二つないし複数のものについて、相違・異質を根源としつつしかも類似

を探究する。そして、それぞれの、そのうちのあるものの如実な特質・本質・存在・様相

その他をいっそう明確にし的確にしようとする。

ひとりひとりがそれぞれに違っていて、そのような異質な世界に生きながら、その性の根

源から、みずからの生きる径を求めてゆく、その真摯な格闘のさなかで、ある類似に気づ

いて、己の生の、生を推進する思索の、その最も根源となるものを、この場において鍛え

上げて行こうとする。・・・・ひとりの人間が今日この世に生きる、そのなかには比較思想の必然

性が痛切に自覚されるであろうと、私は思う。

「あらゆる判断は比較であり、またすべての思想は多様性を同一性によって説明することであ

る」 マッソン・ウルセル

思想・思索は必然的に比較をはらんでいるが、その比較を意識的にとり出して。いわゆる東洋と

いわゆる西洋との諸思想を研究するのが「比較思想」である。
(比較思想序論・三枝充悳著・春秋社)

ピレポス

西洋古典叢書 山田 道夫訳 京都大学学術出版会

プラトン著
「快楽」を主題とするソクラテス的後期対話編

すべの人間にとって人生を幸福にするものは、富や健康や名声のような外的な善ではなくて、その人間の心のありようであり、快を味わっている状態がそれなのか、考え慮る状態がそれなのか。
(西洋古典叢書 山田 道夫訳 京都大学学術出版会)

 


 

 

 

仏教

仏教塾

東京国際仏教塾のサイト、講義録等が読める

 

フィロゾフィーレン

或るもの・こと---それは非常にヴァエティに富むーーに関し、それぞれのひとの能力・

素質・文化などに応じて、出来得るかぎり、そのもの・ことの本質に迫って根源的に考える

こと、といえよう。

フィロゾフィすなわち哲学とは、このフィロゾフィーレンの過程とその結果である。
(比較思想序論・三枝充悳著・春秋社)

文体

沈黙は大事です。
人は自分の言葉をもってはならないが、やはり自分の言葉をもたざるを得ないことが、じつはある。
文章においては「文体」というもの。
「意味」は普遍的ゆえに非人称的なものですが、発語もしくは文章として書きつけられる
言葉は、必ずその人の肉体を通過している。したがってそこには否応無く個別性、正確には独自性というものが、刻印されているはずなのです。
普通の真理を独自のスタイルで表現できないということは、じつはその真理は完全にその人のものとなってはいないのではないか。
文体が印象されなければ、何を言っても同じです。「何を言うか」ではなくて「どう言うか」。

(池田晶子・暮らしの哲学・新潮社)

フロイト(Freud)

フロイトの「無意識」
フロイトは人間の行動を考える構図として、イド・自我(エゴ)・超自我(スーパーエゴ)という三つの要素を提示しました。
イドとは単純化するならば「原始的かつ生物的な欲求」です。(身体)
超自我とは、道徳であり規範であり良心です。(精神)
(自我とは論理であり理性です。
リビドーは「身体に起因するエネルギー」であり、超自我は「それを制御・制限するもの」です。
そして「自我」とは、この「リビドー」と「超自我」とのせめぎ合いの中でバランスを保ちつつ鼓動する「私」です。
超自我によって「禁止(抑圧)」されたエネルギーは、決して消滅することなく「無意識」の世界に淀みます。
「無意識」と「超自我」の対立こおがヒトの条件
(現代思想の使い方・高田明典・秀和システム)

プラトン(前427年-前347年) 

アテネの名門貴族の生まれ。20才のときに、ソクラテス(62才)に出会った。ソクラテスが処刑されるまで」の8年間、ソクラテスの弟子として交流し、影響をうけた。
36編の対話編と13通の手紙を残した。
「ソクラテスの弁明」・・ソクラテスが法廷で陪審員や傍聴人におこなった弁明が述べられている。
「クリトン」・・ソクラテスとソクラテスの親友クリトンとの対話が述べられている。
パイドン」・・ソクラテスの最後の一日の出来事が述べられている。
「饗宴」・・悲劇詩人アガトンの家でひらかれた饗宴のようすがのべられている。
「国家」・・法律につぐ大部の著作であり、プラトンの代表作といえる。
最高のイデアである「善のイデア」を認識するには、感覚を一切用いず、理性のみをもって考察する。
哲学を築いた人びと・山本新。高文堂出版社

  • 驚きは知ることの始まりである。
  • 音楽とリズムは魂のもっとも深いところに至る道を持っている。
  • ただ者のみが戦争の終わりを見たのである

  • フーコー


    桜井哲夫「フーコー 知と権力」講談社。講談本のような面白さに舌を巻く。これほどスリリングで面白い「哲学紹介書」を、ぼくは読んだことがない。
    ぜんぶ本の話・安原顕。ジャパン・ミックス

プラトン

人間がほんとうに考えるべき問題は、「真、善、美」の問題。つまり「何がほんとうか、何がよいことか」という魂の問題である。そのためにプラトンが使ったのが、「対話術」という方法と「イデア」説である。
ソクラテスの対話術を用いて、誰にとっても「そうとしか言えない」という、言葉の本質面を取り出そうとした。そうして取り出されたのが、「善のイデア」という考えである。
あらゆる事物には、その向こう側に、その物をその物たらしめている「本体」というべきイデアがある。最高の「イデア」は「善のイデア」である。
なぜ人間が世界の根本原因を知りたいと思うのか、よりよく生きたいという欲望があるからではないか。そこから考えよう。常に本質は何かを問え。(プラトンの説)
読書案内:「プラトン入門」竹田青嗣著・ちくま新書、「饗宴」久保勉訳・岩波書店
(知識ゼロからの哲学入門・竹田青嗣+現象学研究会・幻灯社)

プロティノス

「一者」(ト・ヘン)は至るところにあるが、しかもどこにもないものだ。なぜ一者は「至るところにある(パンタ・ヒュウ)のみならず、なおまた、「どこにもない」(ウダム)のであるか。一者は万物以前に存しなければならないからである。書というものはこのト・ヘンを書くほかなかろう。(山本空外)。
紀野一義・「般若心経」を読む・講談社)

仏教の本

岩本裕「日本仏教語辞典」
仏教聖典選(全7巻)
「仏教説話研究」
「岩本裕著作集」
(紙つぶて・自作自注最終版・谷沢永一・文芸春秋)

フーコーの権力批判

「狂気と歴史」『監獄の誕生」「言葉と物」「知の考古学」
ことばや概念が、歴史を形作る思考や行為のどこに位置を占めるか。
この歴史の層(言語編成体)は、私たちの生や思考をいろいろな仕方で秩序づけている。
これら言語編成体を通じて権力が行使されると主張。
存在するのはさまざまな権力のシステムであり、それらが絡み合いながら同時に働いている。自分のプロジェクトは「権力の微視物理学」なのだ。
理論や概念や実践を評価するとき、そこににどんな権力のゲームがひそんでいうかを問えと言う。なぜなら権力とは微細なものだから。
 (哲学の道具箱・ジュリアン・バッジーニ他・共立出版)


 

 

 

ヘーゲル

ヘーゲルで完成している哲学はない。
社交好きでブラックユーモアの名手、オペレッタやワインが大好きで、そのくせ文章はいつも殴り書きというヘーゲルの実像が、いつのまにか、精密で巨大な著作群を、営々と築き上げた哲学の巨人というイメージにすり替えられてしまった。
ヘーゲル像の最後はどうなるか。「非常におもしろい、シャープな思想家だけれども、なんか大きな建物が出来上がっているという感じではない。せっかくのアイディアを何も完成しなかった哲学者」というのが、本当のヘーゲル像ではないかと思う。
ヘーゲルの場合、根源となる存在は、醗酵状態にあって、いつもぶくぶく泡を立てているというイメージである。ヘーゲル哲学の根底は、ぶくぶく存在の一元論である。
ヘーゲルは自分の心の中にに浮かび上がってくる観念のイメージの破片を手がかりにして、概念の自己展開するイマジネーションを、不用意に、極端に自己流の文体で語り、綿密に彫琢された文体は絶対に使わなかった。

(哲学の歴史7巻加藤尚武・中央公論社)

 ヘーゲル ヨーロッパ近代哲学の完成者

「人間はどうしたら自由になれるか」「歴史が進展していくことで人間は必ず自由になれる」
物事の変化を説明するには「時間」という軸が必要である。「弁証法」
 肯定 否定 否定の否定
主観としての自己は、客観として認識される社会や他者に学ぶことで現在の自己を否定し、社会性(客観)を備えた自己(主観)へと成長する。
「事そのもの」「よりよく生きる」ためには他者や社会とつながりを持つことが重要
「絶対本質」ほんとうについての哲学。人間の本質は善への意志と言うより、各自が自分の本質をつかむことだ。内的な「ほんとう」こそ真の主題である。ヘーゲル哲学の真髄は人間の「ほんとうへの欲望が、どのような条件で現れ、成熟し、また挫折することになるかを、徹底的に考え抜いたことにある。(精神現象学)
読書案内:「ヘーゲル・大人のなりかた」西研著・nhkブックス
      「完全読解ヘーゲル現象学」竹田青嗣・西研著・講談社選書メチエ
(知識ゼロからの哲学入門・竹田青嗣・現象学研究会・幻灯社)    

 

 

 

(知識ゼロからの哲学入門・竹田青嗣・現象学研究会・幻灯社)    

変性意識状態

唯識:すべてのものは「識」、心の働きが作り出した仮の現象。深層心理学に近い考え方。
為の力:河合隼雄・谷川浩司:PHP研究所

人間は元来、日常と非日常を往復することによって心のバランスを保っている存在であり、非日常性と深くかかわっている変性意識を理解することは、個人主義の桎梏に苦しんでいる現在の人間にとって、きわめて重要なことだと私は考えています
( 菅靖彦氏:翻訳家、セラピスト。日本のニューエージ・ムーブメントの中心にいて、癒しや心の問題を取り上げる著作を数多く執筆、翻訳している。創造性開発のワークショップや呼吸法のワークも行っている。現在、日本トランスパーソナル学会副会長。主著に『変性意識の舞台』(青土社)『心はどこに向かうのか』(NHK出版)がある。)

弁道話

自受用三昧
この三昧に遊化するに、端座参禅を正門とせり。
この法は、人々の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらわれず、
証せざるにはうることなし。はなてばてにみてり、一多のきはならむや。かたればくちいに
みつ、縦横きはまりなし。
ただ、けふをはじめとおもはむや。

(正法眼蔵・道元禅師全集T・春秋社・訳注水野弥穂子:道を尋ねて雲遊漂寄する参学のために書き残すつもりで書かれた。)

  


 

翻訳 

「翻訳すること」とは、ある言語を別の言語に移し換えること、外国語を母国語へ、もしくはまたその逆に移し換えることだと言われている。私たちはまた、たえずすでに、私たち自身の言語、母国語を、その母国語自身の語へ翻訳しているのである。あらゆる対話と独白は、一種の根源的な翻訳がはたらいているのである。
詩人の詩、思索家の論述は、それの固有の、一回かぎりの、唯一の語にある。語のこうした初穂は、いつも、私たちを或る新しい岸におき移してくれるのである。
(パルメニデス、ハイデッガー全集 第54巻、北島美雪、湯本和男、アルフレド・ゲッオーニ訳、創文社)

 

本質と偶有性

本質とは、ものをそのものたらしめている何か。ものの本質を定式化すれば、そのものを定義したことになる。
アリストテレス「形相・エイドス」自然の事物の本質的特徴。
自分の本質は「純粋に考えるもの・レースコギト」デカルト。
実体とはわたくしたちが明晰に合理的に思考するかぎり独立に存在するとみなすしかないものを意味する。デカルト・スピノザ。
偶有性:性質を変化させても、そのものは損なわれない、本質的ではないもの。属性ARTRIBUTE・様態MODE。
(哲学の道具箱・ジュリアン・バッジーニ他・共立出版)

「レビナス 無起源からの思考 」講談社メチエ
他者特有のありかたを懇切丁寧に解説してくれるのだが、その誠実な努力に応えられなくて、・・・
(中島義道・哲学者というならず者がいる・新潮社)
 

 
 
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