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ハイデガー
ハイデガーの思索の筋道を早くから決定していたのは、「有」と「言葉」であったことは、ハイデガー自身認めているが、それだからこそ逆に、両者の論及は背後にとどまってしまった。「有」については「有と時」を1927年に発表しているが、ハイデガー自身、「この書物の欠陥は余りにも早く遠くまで行き過ぎてしまったこと」と認めている。「言葉」については、ヘルダーリンの詩の解明や論理学の講義、ロゴスの論及など、言葉の問題が中核となった思索が行われてきたが、「言葉」の表題を正面に掲げた本書(言葉への途上)をまとめたのは時期的にはずっと後の1959年で、「有と時」を発表してから三十年以上も経ってからのことである。 (言葉への途上・ハイデガー全集第12巻・亀山健吉、グルムート・グロス訳・創文社) 参考人間存在論
パースペクティヴィズム
過去を美化する言説は、ある時点からの眺望を普遍化する「眺望固定病」である
パースペクティヴィズムとは、「遠近法」などと訳されるパースペクティヴからきた言葉だ。 遠近法は、ある視点からの三次元的な眺望を二次元に固定・定着する絵画の手法だが、或る視点もしくは時点からの眺望を未来永劫、どこからみても成り立つものとして固定してしまうのがパースペクティヴィズムである。 (哲学ワンダーランド・貫成人・php研究所)
パラドックス
通念に反する。ギリシャ語 1.正しいと思われる前提から、欠陥の見当たらない推論をしたとき、他の通常の論理的 判断や経験と矛盾したり衝突したりする結論が生じるケース。(理性が経験と矛盾)「アキレスと亀」 2.この言明は偽である。(理性自体の矛盾) 3.イエス・キリストは永遠で全知の神であると同時に、死を免れ得ないに人間でもあった。 (経験が理性と矛盾する)経験=信仰の飛躍。(キエルケゴール) 明らかに正しいと思えたことの吟味をせまる点に力と魅力がある。 (哲学の道具箱・ジュリアン・バッジーニ他・共立出版)
般若心経
唐三藏法師玄奘譯
觀自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。是故空中。無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味触法。無眼界乃至無意識界。無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。無知亦無得。以無所得故。菩提薩多。依般若波羅蜜多故。心無罫礙。無罫礙故。無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。究境涅槃。三世諸佛。依般若波羅蜜多故。得阿褥多羅三獏三菩提。故知般若波羅蜜多。是大神咒。是大明咒。是無上咒。是無等等咒。能除一切苦。真実不虚故。説般若波羅蜜多咒。即説咒曰
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提僧莎訶
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チベットの『般若心経』
(shes rab kyi pha rol tu phyin pa'i snying po)
石濱裕美子訳
インドの言葉でアーリヤ・バガバティ・プラジュニャー・パーラミター・フリダヤ、チベットの言葉で、『聖なる世尊の悟りの智慧の究極というものの心髄』
[導入部]
一切の仏と菩薩とに敬礼します。 このように私は聴きました。あるとき、世にも尊き方 (世尊bcom ldan 'das) が王舎城(rgyal ba'i khab)の霊鷲山(bya rgod phung po ri)に、出家者(比丘 dge slong)の大僧団(僧伽 dge 'dun)と菩薩の大僧団といっしょにおわしましたその時に、世尊は「深淵なる光」(zab mo snang ba)という法名の瞑想(三昧ting nge 'dzin)に等しく入られました(等至 snyoms par 'jug pa)。
また、その時大いなる勇猛心をもてる菩薩である、聖観自在は[仏が]深遠なる「悟りの智慧の究極」(智慧波羅蜜)を行なうのをご覧になって、「身心を構成する五つの要素」(五蘊 phung po lnga)もその本質においては空であるとご覧になったのである。
それから、仏の力によって長老シャーリプトラ (舎利子) は大いなる勇猛心をもてる菩薩観自在にこのようにもうしあげました。 「一族の男子、一族の女子で、深淵なる仏の悟りの智慧の究極の行ないを行じようと欲するものは、どのように学ぶべきなのでしょうか。」そのように申し上げたところ、大いなる勇猛心をもてる聖観自在は長老(tshe dang ldan pa)シャーリプトラにこのようにもうしあげました。
[身体と心を構成する五つの要素(五蘊)が空であること]
「シャーリプトラよ。一族の男子(rigs kyi bu)、一族の女子(rigs kyi bu mo)で、深淵なる「悟りの智慧の究極」の行ないを行じようとするものはこのように見るべきである。すなわち、「身心を構成する五つの要素」(五蘊)も本質は「実体がない」 (空) と見るのである。 「かたち」(色 gzugs)は「[関係の中にあるが故に] 実体がない」のである。「実体がない」ことが「かたち」である。「かたち」を抜きにして「実体がない」ことはなく、「実体がない」ことを抜きにして「かたち」はない。
同様に、「感受作用」(受 tshor ba)、「識別作用」(想 'du shes)、「意志作用」(行 'du byas)、「認識作用」(識 rnam shes)なども「実体がない」のである。
シャーリプトラよ。そのようであるので、いっさいの現象は空なる性質を持っているのである。すなわち、性質(mtshan ma)もなく、生じる(skye ba)こともなく、滅する('gog pa)こともないのである。汚れ('dri ma)もなく、汚れがないこともないのである。減る(bri ba)こともなく、増える(gang ba)こともないのである。 シャーリプトラよ。そのようであるので、「実体がない」には「かたち」はなく、「感受作用」はなく、「識別作用」はなく、「意志作用」はなく、「認識作用」はないのである。
[十二の認識領域が空であること]
眼(mig)もなく、耳(rna)もなく、鼻(sna)もなく、舌(lce)もなく、身体(身 lus)もなく、心(意 yid)もないのである。「いろかたち」(色 gzugs)もなく、「音」(声 sgra)もなく、匂い(香 ri)もなく、味(ro)もなく、触覚の対象(触 reg bya)もなく、「現象」(法 chos)もないのである。
[十八の認識領域(十八界)が空であること]
眼界もなく、眼識界もなく、以下同様に [十八界の二項目目以下は省略され、最後の項目である]、意界もなく、意識界もないのである。
[十二支縁起が空であること]
無明(ma rig)もなく、無明が尽きる(ma rig pa zad pa)こともなく、以下同様に [十二支縁起の二項目目以下が省略され、最後の項目である] 老死もなく、老死がつきることもないのである。
[四つの聖なる真理も空であること]
苦の真理もなく、苦の原因の真理もなく、苦を滅するという真理もなく、苦を滅するための道という真理もないのである。
まとめ
色(gzugs) 声(sgra) 香(dri) 味(ro) 触(reg bya) 法(chos) |
眼(mig) 耳(rna) 鼻(sna) 舌(lce) 身(lus) 意(yid) |
眼識(mig gi rnam par shes pa) 耳識(rna 〜) 鼻識(sna 〜) 舌識(lce 〜) 身識(lus 〜) 意識(yid 〜) | <−−−−十二処−−−−> <−−−−−−−−−−−十八界−−−−−−−−−−−−>
純粋意識(ye shes)もなく、獲得する(thob pa)ものでもなく、獲得するものでないこともないのである。 シャーリプトラよ。そのようであるので、もろもろの菩薩は獲得するものでないために、「悟りの智慧の究極」によって、心に煩悩(sgrib pa)がないために、恐れがないのである。誤った考えを超克して(las 'das)、「憂いを超克した」(涅槃 nya nang med)という究極[の境地]にいるのである。 現在・過去・未来(三時 dus gsum )におわします一切の仏も「悟りの智慧の究極」によって無上(bla na med pa)にして清浄に(yand dag par)完全なる(rdzgos pa)悟り(byang chub)を明かに(mngon par)完成して仏となったのである。 そのようであるので、「悟りの智慧の究極」の真言、大いなる明知の真言、無上なる真言、比類なき真言、一切の苦しみを鎮めしめる真言は、偽り(rdzun pa)なく、真実(bden pa)であると知るべきなのである。「悟りの智慧の究極」の真言を申し上げる。
[真言]
ta tya tha/ ga te/ ga te/ pa ra ga te/ pa ra sam ga te/ bodhi sv'a h'a/
シャーリプトラよ。偉大なる勇猛心をもつ菩薩は、深遠なる「悟りの智慧の究極」をそのように学ぶべきなのである。
[結尾]
それから、世尊はその瞑想より意識を立ち上げて、偉大なる勇猛心をもてる菩薩聖観自在にむかって「すばらしい。」と[お言葉を]授け「素晴らしい。素晴らしい。一族の男子よ。そのようである。そのようである。汝が説いたごとくに深遠なる「悟りの智慧の究極」を行ずるべきである。如来も喜んで(yid rang)いる。世尊はそのようにお言葉を賜ら(bka' stsal)れて、長老シャーリプトラと菩薩聖観自在と一切の取巻き('khor)、すなわち天(lha)、人(mi)、阿修羅(mi ma yin)、ガンダルヴァ(dri za)などの世間のもの('jig rten)は喜んで、世尊がおっしゃられたことを賛嘆(bstod)なさったのである。 『世尊の悟りの智慧の究極の心髄』という大乗(theg chen)経典は終ったのである。
[コロフォン]
インドの僧院長(mkhan po)ヴィマラミトラと翻訳家比丘リンチェンデが翻訳して、 校訂(zhu chen)翻訳家ゲロとナムカー等が[訳語を]決定(gtan la phab pa)したのである。
(チベット学への招待HPより 石浜祐美子)より
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般若
ブラジュニャーの音訳。「真実智」「根本智」人間の分析的な知恵とは違う。 分別智、人間の分析的な知恵は「ヴイジュニャーナ「の「ヴイ」という接頭語は」分割する」の意味。「花を花と見て、花と見ず」 (紀野一義・「般若心経」を読む・講談社)
波羅蜜多
1.「パーラミター」の音訳。パーラム(彼岸に)+イタ(至れる) 2.「パーラミ」(彼岸に至れる)+ター(状態)、完成に到達せること 般若波羅蜜多を「知恵の完成」と訳。 (紀野一義・「般若心経」を読む・講談社)
観自在
アヴァローキテシュバァラを、「観」(アヴァローキタ)+「自在」(イーシュヴァラ)の合成語と見る。「観自在」と訳出し知恵を強調。 (紀野一義・「般若心経」を読む・講談社)
観
勧:人から勧められる。勧めることが絶対に重要。 歓:心の中に映らないと歓びを表面に出すことができない。 観:心のなかに感ずること。 勧められ、歓びを感じ、心として「観」をを支える。 (紀野一義・「般若心経」を読む・講談社)
菩薩
ボーディサッタ(菩薩)菩薩のような人と菩薩とは違う。 声聞:聖者の教えを信受した者。 縁覚:天地の理法を自ら会得した者。 「道路不同、会見無期」違った道を行ったのでは永久に会うことはない。菩薩に会おうとする者は菩薩の道を行かなくてはならない。鈴を鳴らして欲界に沈みこまぬよう戒め、ただ一人行かなくてはならない。 (紀野一義・「般若心経」を読む・講談社)
真実
「もはやそれ以上何者にも還元され得ない一つの本源的な事象」「沈黙」「愛」「真心」「死」(マックス・ピカート)。死の重さで計られるようなものが真実である。「さまよえるオランダ人」 (紀野一義・「般若心経」を読む・講談社)
般若波羅蜜多
「般若波羅蜜多」とは、ずばり瞑想を意味しているのだ」パグワン。大悟した禅者は、師のもとへ赴いて「見解」を呈するが、それはおおむね詩のごときものである。大悟の非体験性、非論理性がよく現れている。それが「さとり」である。そういうものが「瞑想」であり、そういうものが「深般若波羅蜜多」であり、そういうものが「真実」である。真実というものは突如としてくる。一瞬のうちにやってきて、私とひとつになってしまう。その一瞬は「今」というものだろう。一瞬一瞬に永遠を感じ無限を感じるのだ。 (紀野一義・「般若心経」を読む・講談社)
行時
行を行じつつある時に(チャリヤーム・チャラマーノ)「行行」慈雲尊者。行を行ずる。
盤山
心月孤円 光呑万象 光非照境 境亦非存
発生論的誤謬
信念の由来が信頼性に乏しいからといって、正当性を欠いているとみなすみなす十分な理由にならない。由来と正当化の間に必然的な繫がりははない。 (哲学の道具箱・ジュリアン・バッジーニ他・共立出版)
背理法
「君がXと信じるなら、Yと言うことを信じざるを得ないわけだ。でもYは馬鹿げている。 さて、君は本当にXと信じているのかい?」プラトン、「国家」8 (哲学の道具箱・ジュリアン・バッジーニ他・共立出版) |