文芸辞典 (た〜と)
 
 


 

谷崎純一郎

谷崎氏が初期の作品で手ひどい女性を好んで書いたのは、日本のいじけた文明、みじめな享楽を見るに見かねて、せめて文学の世界だけでも濃艶華麗な力強さを表現したかったからであろう。氏が自分の夢を実現するために、女性を手段とした気配は、どの短編にもよくうかがわれる。
(武田泰淳・武田泰淳短編集・影書房)

多田智満子 詩人

草の背を 乗り継ぐ風の 行方かな

草茫々忘れ残せし夢と思へ

むかし父ありき麻服パナマ帽 

むかし母すだれ巻き上ぐる腕白し 

海怖ろし波がつぎつぎと手を挙げて

 (句集 風のかたみ )

大家

一芸に秀でた人に人格者はすくない

作家が大家の風格を持つていたのは、川端康成、谷崎潤一郎が最後の世代といっていいでしょう。現在意識的に大家に近づこうとしている作家がいるとすれば、それは村上春樹だと思います。(ほかに森鴎外・夏目漱石・武田泰淳を大家としています)

真贋 吉本隆明 講談社

高村光太郎
 

道程(処女詩集)

人体飢餓

彫刻家山に飢える

くらふもの山に余りあれど
山に人体なく
山に女体の美味がない
精神の淡白飢餓。
造型の餓鬼。
また雪だ。

「かれは日本の詩というものでは、昇れるだけ昇りつづけた男であった。一度も後退したことはない。(室生犀星・我が愛する詩人の伝記)」

詩作品にも光太郎には意志的な詩が多く、そこに男性的な魅力があるのだが、エロスにおいてもデカダンスの意識においても、官能を超えた意志の姿勢で強く訴えてくる。書もまたこれを反映して清冽の趣きがある。〔幻花山房漫筆・三好豊一郎。小沢書店

飾りを削りとること。情緒に流されないこと。冬のようにきびしく垂直に立っていること。醜悪、悪行、卑しさの見掛けをもっていても、それが自然さに根ざしているかぎり美しい。こういう言葉で圧縮されるものが、高村光太郎の「道程」をはじめとする詩集の中心思想だと言える。
日本近代文学の名作・吉本隆明・毎日新聞社)

高村光太郎の飲み物の詩

(ウーロン茶)

瓦斯の暖炉に火が燃える

ウウロン茶、風、細い夕月

(コカコオラ)

柳の枝さへ夜霧の中で

白つぽげな腕を組んで

しんみに己に意見をする気だ

コカコオラもう一杯

(コーヒー)

するどきモッカの香りは

よみがへりたる精霊の如く眼をみはり

いづこよりか室の内にしのび入る

(リキウル)

一杯の酒(リキウル)に泣かむとす

寒さ烈し

冬の夜の午前二時

わたしたちの自分というのは、むしろ自分でないものによってしか語ることができないものです。

すべて君に宛てた手紙・長田弘・晶文社)

 

 
探偵小説

丸谷才一は、「現実の市民社会と理想の市民社会とを識別するだけの、知的能力がある」場合のみ探偵小説のおもしろさがある、という。したがって、探偵小説の読者は現実と理想の乗離をつねに暗黙のうちに体得できる
論より証拠・谷沢永一。潮出版社

駄作


小池真理子「恋・早川書房」究極の駄作。本作を直木賞に押した選考委員の眼力を疑う。後に小池真理子にあったら、(ぼくの批判はあたっていると言っていた
全部本の話・安原顕。ジャパンミックス


谷川俊太郎(1931−)


この詩人ほど多様なスタイルを自在にこなし、また平明さと深さを自由に往復できる詩人は、戦後詩にあって特に例がない。

何ひとつ書くことはない

私の肉体は陽にさらされている

私の妻は美しい

私の子供たちは健康だ

本当の事を云おうか

詩人のふりはしてるが

私は詩人ではない     (鳥羽1)

ウ”イトケンシュタイン的他者ーわれわれの詩の言語を理解しない者ーにも呼びかけうるという、奇跡的に実現された転回点のうえに立っている。だから詩は、語のもっとも深い意味で、コミニュケーションの形式である

(詩的レトリック入門・北川透。思潮社( 谷川俊太郎・野村喜和夫「ランゲの無限に向かって」

田村隆一

四千の日と夜

僕は幻を見る人ではない

幻を見たかっただけだ

空から小鳥が堕ちてくる

この空も

あの子鳥も

抽象にすぎない

空と小鳥が抽象だったのは

ぼくの不幸だ           (詩と夢について)

「人間の内部には言葉が棲んでいる。腕を切ってごらん。「痛い」って言葉が出t来るだろう。だから、人間は本質的に言葉でできているんだ」と語る詩人は、言葉が存在に先立つことを確信している

       宿題

をつぶっていると

神様が見えた

うす目をあいたら

神様は見えなくなった

はっきり目をあいて神様は見えるか見えないか

それが宿題
城戸朱理・田村隆一・荒地への意思)

種田山頭火 1885−1926

分け入つても分け入つても青い山

ふるさとを忘れがたい夕風が出た

こころ疲れて山が海が美しすぎる

ここで泊まろうつくつくぼうし

 山あれば山を観る

雨の日は雨を聴く

 うしろすがたのしぐれてゆくか

うまれた家はあとかたもないほうたる

てふてふうらからおもてへひらひら

このみちを行くよりほかない草しげる

山頭火の遺墨

それは書のための書ではなく、・・・・・俳書一如の世界

(山頭火、飄々。村上護・二玄社)

 高橋たか子

自分を相手にさし向ける、かつ相手をよく見つめている、ということが、日本人に欠けている。

私の生きたすべては、私が覚えていなければ、誰も覚えている人はない。そもそも誰も知らないのだから。

もう一つの夢

人生は、もう一つの夢だ、と

ネルバルは言ったっけ

男女の愛ってどんなことなのか、存在と存在とをあげての求心的な愛なのだ。

小説は事実を書くものではなくて、フィクションの中で真実を書くもの。

その時その時、その人が生きた実質(いのちの中身)は、その人しか知ることができない。その人の

み知っていて、神のみ、もつと大きく知っておられる。

「インターネットの恐ろしさ。 

思考そのものが薄らぐ。

遊びと真実との見分けをなくしていく。」

「わたしが居なくなるとき

それはわたしが

生きている夢から目覚める時、また

人類の見ている夢の、外へ

私が出てしまう時、そんな

いわく言いがたいこと」
(高橋たか子の「日記」 2005年4月28日 講談社)


高橋源一郎

宮沢賢治の文学が最高。

ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ2005・7・10 週間ブックレビュー出演

代表作

川崎長太郎 「抹香町」「花火」
私小説という哲学・岡庭昇・平安出版)

檀 一雄

在る時は有りのすさびに憎かりき 
なくてぞ人の恋しかりけり

花ならば壷にいけむ
君ならば心に植えむ歌はなくとも

荒海の逆巻く波の悶えつつ
落日の火心たぎりて沈む

(檀 一雄歌集・皆美社版)

ダンディズム(父母の)

きたない身なりは恥だ、まずい食い物は毒だ、と父はいった。
人と別れるときに振り返って手を振るようなまねをするんじゃない、と母はいった。
(浅田次郎・新撰組読本・文芸春秋)


 


 

乳房

乳首には指ぬきに似たところがある(じゅうぶんにではない)。たぶん乳首は大きな消しゴムを軽く噛んだ端のようだろう。そうだ茶色になったら、眼が二つ余計にできたようなものだ。
私が今までに見た乳首のなかには、赤ん坊に乳を飲ませるために、ひどく引っ張られ、平たくされ、まるで二つの小さな舌のようにそこに垂れ下がっているのもあった。
乳房は、大きな二つの花を、胸に逆さに置いたよう。花のうてなの切口からは、乳色の樹液が流れる。下腹はなお柔らかく、手をおけば気も絶え絶え。

(ブルーについての哲学的考察・ウイリアム・H・ギャス・須山静夫・大橋ふみ子訳・論創社)

中国
 

中国のとてつもない広さ、そうしてどうしても群雄割拠にならざるをえないという国家的宿命を知るためには「三国志」を、あるいは中国近代化のプロセスを知りたければ陳舜臣の「阿片戦争」(講談社)を読むべきであり、現代の中国要人の言葉をウ呑みにすることよりも、はるかに詳しく厳密に中国を知ることができる。
論より証拠・谷沢永一。潮出版社

地下鉄の詩


地下鉄の駅で   エズラ・パウンド

群集の中の亡霊のような顔また顔

濡れた、黒い枝の上の花びら


 詩人は、荒木田守竹の発句「落花枝にかへると見れば胡蝶かな
(The fallen blossom back to its branch A Butterfly)
を念頭に置きながら書き上げたのが、先きの二行詩である。
きまぐれ読書・富士川義之。みすず書房)

彫金作家

鴨下春明 「自然のものは、それだけで完成された美しい形だから、そこにどう自分を表すかが大事なんだ」


 
津村信夫
 

父が庭にゐる歌

父を喪った冬が
あの冬の寒さが
また 私に還ってくる

父の書斎を片付けて
大きな写真を飾った
兄と二人で
父の遺物を
洋服を分けあったが
ポケットの紛悦は
そのままにして置いた



   

天啓

人生の真理の数々はわれわれの力によって発見されるのではない。思いがけない瞬間に、何らかの恵み深い天啓が魂の上に降り、その天啓が魂を打って一つの感動を喚び起こし、その感動が、どうしてだかわからないが、心によって思想に変えられるのである
閑適集ギッシングとともに・大塚幸男・第三書房)

寺田 透

ひとが専門をえらぶにはちがいないが、かなりの程度専門はひとをつくるといって言っていいのではあるまいか


使う道具も考えの進め方もできるだけ確実なものをえらび、分からないことがあったらより単純なより確実な一つ手前の段階にことを引き戻すといふ、ものを考える上での態度は数学によって教えられたと言える。
足跡展望 寺田透・人生数学同形論

寺山 修司


書物

書物は、価値そのものでなく価値の代替物であるという点で、貨幣に似ている。しかし、「読む」ことのよって体験を理念変え、「自分自身であること」を「自分自身であろうとすること」に変える。

数字

数字は何で出来ているのか
それは月光にぬれた法則たちのパーティなどではない。不動の定理の戸籍簿でもない。ひそかなる鬼の暗号なのではないか。

旅  

人生は汽車に似ているな。旅をしながら年老って古くなってゆく。自由になりたいな、って思うが、レールの外に出れる訳じゃない。

魂  

地下鉄の
鉄骨にも
一本の電柱にも
ながれている血がある
そこでは
血は
立ったまま眠っている


( 両手いっぱいの言葉(新潮文庫)「名言集というのは、言葉の貯金帳なのね」

麦藁帽子

ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駆けて帰らむ

わが夏をあこがれのみが駆け去れり麦藁帽子被りて眠る

ひとよりもおくれて笑うわれの母一本の樅の木に日があたる

(寺山修司。青春作品集7・少年歌集 麦藁帽子・新書館)


 

トルーマン・カポーティ

 Truman Capote

特命全権大使米欧回覧実記
久米邦武編
英吉利国ノ部


視察団はイギリスの繁栄に驚愕し、その富強ぶりを昔からだと当初は錯覚したのですが、調べなおし、・・・・
そして日英の差は「僅かに四十年に過ぎざるなり」と結論づけたのです
(文化力・川勝平太・ウエッジ)

土岐善麻
 

電燈を 一つ明るく 部屋に吊り 家族より集い 縫い読み語る


陶淵明


人生似幻花 終当帰空無


得意


得意とは「何が欠落しているかを知り尽くしているから自克できる能力」のこと。得意な領域があればこそ、自分が不得手なこともわかる。そこから「得手」になっていく方法を見いだそうという発想が生まれ、実践していく。
デザインは言語道断・川崎和男。(株)アスキー


読書

問題とするに足る何らかの意味において読書する人々は、極めて少数である。
書物の印刷が明日すべて停止したとしても、何ら痛痒を感じない人々の数は莫大である。
最も価値ある書物の多くは永い間かかってやっと数百部が捌けるのみである。
要するに、重々しい文学書を生活の必需品と看做しているような男女は、大英帝国を隈なく探し集めても、アルバート・ホールに楽々と収まるとみて間違いあるまい

(ギッシング)
閑適抄ギッシングとともに・大塚幸男・第三書房)


読書
 

読書は無形の設備投資である。最初ひと思いに無駄使いせよ
私のひいきの著者。長谷川慶太郎氏、つぎに氏のほめている竹内宏氏。竹内氏の高く評価している小宮隆太郎氏や飯田経夫氏。
読書は、読んだ内容を全部覚えられるようなものではない。内容そのものより、内容を包み込んでいる著者の味わい、ニユアンス、雰囲気といったものによって、実際は読書しているのである
解説書・入門書に気兼ねするな。
知恵を磨くのに格好の書物がある。E・Sガードナーのペリーメーソンシリーズ。
プラトン全集
若い人の書いたものに嫉妬するな。
論より証拠・谷沢永一。潮出版社

外村繁


見せばやな 小島の海女の 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色はかわらじ

著者の長編絶筆 一人の小説家がいかに生き、性欲と愛情の世界をいかにみつめ、また不治の病にいかに対処したか   

(濡れにぞ濡れし・ 昭和36年10月10日 講談社 装幀 村上豊)


土門 拳


「風貌」を見ずに日本人は語れない。「古寺巡礼」を見ずに日本は語れない。「ヒロシマ」や「筑豊の子供たち」を見ずに、戦後は語れない。と河谷史夫は「読んだふり」(洋泉社)で語る。

遠山慶子

ピアニスト 「ドビッシー とラベル」 カメラータ・トウキョウ 

遠藤周作氏推奨

徳田秋声

町の踊り場」短編小説・私小説・読み終えた者はなんとも言いようのない荒涼感と、そのなかで高揚する生命をおぼえるのだ。百年の風である。今でも吹いている。われわれもそのなかにある
(古
井由吉・半日寂寞・講談社

通り雨

通り雨には風情がある。「裾乱す 脛の白さや 通り雨
(森本誠一・写真俳句のすすめ・スパイス社」

 

 

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