書余滴      「般若心経」島田裕巳著(東京大学客員研究員)日文新書 20151210修正   「般若心経」渡辺章悟著(東洋大学教授)   大法輪閣 
般若波羅蜜多心経(玄奘訳)[釈迦によって説かれた完璧な悟りに至るための偉大                          な知恵の神髄について示した経典」島田裕巳現代文訳
かんじざいぼさつ        自在に観る力を有する観世音菩薩が
観自在菩薩             優れた大いなる智慧によって悟りの世界へと至ぎょうじんはんにゃはらみったじ る道に ついて、深く極めようとしていたとき行深般若波羅蜜多時    人間の認識作用の集まりとして重視されていた   しょうけんごうんかいくう 「五蘊」について考えを進め人間の認識作用の集まり
照見五蘊皆空*1       が、実体を持たない「空」であると見抜いた。
多くの人たちは、この世に存在する物質や現象、出来事は実体を伴ったものとして存在すると考え、それにとらわれている。小乗仏教においても、そうした見方  が有力であったが釈迦の悟りを徹底して考えていくならば、筒底すべてが実体を持っていると認識をしたはずはなく、あらゆるものには実体が伴っていないと考えたことがわかるはずである。それこそが、偉大なる乗り物、「大乗」の意味するところである。観世音菩薩はこうした大乗仏教の考え方の上にたって五蘊はがすべて空
どいっさいくやく            であるという認識に到達した。   度一切苦厄 それによっていっさいの苦悩や厄を乗り越えるこえることができた。
小乗仏教で重視されたのは、人間は苦悩する存在であるということであり、宗教の目的は、その苦悩からいかに逃れるかにおかれてきた。苦とは「生老病死」「四苦」や、「四苦八苦」からなるが、人間の認識作用をすべて空であると見定めるならば、苦そのものが存在しないことになり、それを乗り越えてしまえるのである。
しゃりし      シャーリープトラよ          
舎利子       
しきふいくう  色はそのまま空であり、空はそのまま色である。 
色不異空    形あるものはそのまま空であり 実体を伴っていないがゆえに、くうふいしき  森羅万象が生み出されてくるとも 言えるのだ。
空不異色    五蘊ののうち色だけについて述べたけれども後の四つの作用であ
しきそくぜくう る受想行識にもあてはまる。人間は、自分が見たものや、
色即是空     感じた事柄にとらわれ、 心を奪われ、あらゆるもの
くうそくぜしき  が実体を伴っているものと 考えてしまいがちである。
空即是色     そのことを 疑ってみようともしない 。
じゅそうぎょうしきやくぶにょぜ  深い智恵によって世界のありようを見定め
受相行識亦如是  ていくならば、あらゆる ものは空であると考えな
         いわけにはいかないの だ。
しゃりし     シャリープトラよ   
舎利子         いっさい が実体を持たな空である.という認識に立つならば、
いぜしょほうくうそう           
是諸法空相           何か物事が生み出されていくこともないければ、
ふしょうふめつ      何か物事が消滅していくこともない.   
不生不滅            何か物事が汚れたり、浄まったりすることもない.
ふくふじょう       物事が増えていったり、減っていったりすることもな
不垢不浄            くそうしたことに煩わされる必要などまったくない。
ふぞうふげん     
不増不減         
ぜこくちゅうむしき       すべてが空である以上、                是故空中無色            感覚的な作用が起こらないのは勿論のこと、
むじゅそうぎょうしき   それを受け止める眼や鼻、舌、体、そして心、 
無受想行識        精神の働きといったものも存在してはいない。  
むげんにびぜつしんに   色もなければ、声も、香りも、味も、触覚も、 
無限耳鼻舌身意       存在しないのだ。
むしきしょうこうみ    小乗仏教で無限界乃至無意識界は、認識すること、
無色声香味触法      知ることの重要性が説かれているがそれもまた空で
むげんかいないしむいしきかい あり、そうしたものが存在しない以上それにとら
無限界乃至無意識界    われる必要もないのである。要するに、小乗仏教でい
むむみょう       われている、「五蘊・十二処・十八界」からなる認識論
無無明         自体、すべてが「空」であり、無である以上成り立ちよ
やくむむみょうじん   うがない。小乗仏教においては、人間が老いて死ぬこと
亦無無明尽         に苦を感じるのは「十二縁起」によるものと考えられ
ないしむろうし     その根源には根本的な迷い、無知があるとされてきた。
乃至無老死             それこそが「無明」である。しかし、すべてを空とみな
やくむろうしじん    す大乗仏教の立場からすれば老いも死も存在しないし、
亦無老死尽           そこに至る「十二縁起」も存在しない。そして根源的
むくしゅうめつど    な無知も存在としての無明も存在しないことになる。   無苦集滅道        十二縁起とともに説かれてきたのが、苦についての心理
むちやくむとく     である「四諦」である。人生の根底には苦があり、苦の
無知亦無得        生じる原因を絶ちきることで、心の平安が得られるとし
 いむしょとくこ     苦行や快楽にも流れることのない「中道」として「八
以無所得故        正道」の実践の必要が説かれてきた。しかし、大乗の空
ぼだいさった      の立場からすれば、苦自体が存在しない。結局のところ
すべては空であるということにつきている。その点さえ明確であれば、ほかのことは全く必要とされない。大乗仏教における空の考え方は決定的な重要性を持ち、究極の教えだといえるのである。
菩提薩垂                 菩薩という存在は
えはんにゃはらみった     悟りへと至る勝れた大いなる智慧によっている
依般若波羅蜜多故        がゆえに、 
しんむけいげ       その心は自由であり、あらゆる事柄に縛られたり
心無圭礙               、妨げられたりしない。 自由であることは恐怖の
むけいげこむうくふ    対象が存在しないことを意味する。 世の中にはび
無圭礙故無有恐怖     こっている間違った認識や妄想に振り回
おんりいっさいてんどうむそう されるとなく、究極の悟りの境地に到達する。
遠離一切転倒夢想          
くきょうねはん        
究境涅槃              
さんぜしょぶつ       過去仏も現在仏も未来仏もすべては空であると 
三世諸仏            いう真理を体得しそれによって悟りを開いた。 
えはんにゃはらみつたこ   あらゆる存在は、心の平安を得るために
依般若波羅蜜多故        こうした仏の歩んだ道を進んでいけばいい。   とくあのくたらさんみゃくさんぼだい  そこにしか悟りはないのだ。   
得阿耨多羅三藐三菩提       
こち            ここまで説いてきたことから明らかのように、
故知                     
はんにゃはらみった     完全なる悟りへいたる智慧こそがすべてである。
故般若波羅蜜多          それは、真言密教において説かれる   
だいじんしゅ        
是大神呪                 もっとも優れた「真言」である
ぜだいみょうしゅ
是大明呪                 それ以上に力のある真言は存在しない。   
ぜむじょうしゅ
是無上呪                 価値において勝る真言はない。       
ぜむとうどうしゅ
是無等等呪           ほかの真言とは比較ならないものである。    
のうじょいっさいく     悟りへと至る大いなる智慧は、
能除一切苦             あらゆる苦を消滅させてしまう。
しんじつふこ
真実不虚          虚しいものではなく確固としたものなのである。 こせつはんにゃはらみつたしゅ
故説般若波羅蜜多呪       ではその完全なる悟りに至る
そくせつしゅわつ       大いなる智慧の真言を示しておこう。
即説呪曰             それが、
ぎゃていぎゃていはらぎゃてい    
羯帝 羯帝 波羅羯帝        ギャーティ ギャーティ ハラギャーティ
はらそうぎゃてい
波羅僧羯帝                 ハラソウギャーティ
ぼうじ
菩提                    ホウジ
そわか
僧莎訶                    ソワカ
この真言を唱えることによって、仏(仏陀)が説いてきた真理を知ることができ、この世界すべて空であることを理解していく。そして菩薩の境地に到達し、この世に仏の世界をあらわすことができる。それによって、あらゆる存在が完全なる  悟りへと至るのである。 この得難い真理を伝える経典こそが、「般若心教」にほかならない。 この経典には、私(仏)の示した教えの真髄が余すところなく示され、そこに至るためにどういった道筋をたどればいいかが示されている。
般若心経              「般若心教」は私のすべてなのだ。         
以下渡辺章悟著「般若心経」テクスト・思想・文化より
注1般若心教の位置づけ
(1)伝統的顕教の立場、空を説く経典。(2)密教教典の立場、空海「般若心教秘鍵」
注2般若心教の「心」の解釈。(1)フリダヤ「心髄」(2)マナス「知性」(3)密教では「心呪」真言と同列。(4)伝統的な解釈「心髄」「核心」
注3色即是空 空即是色
(1)空=シューンヤ 空虚であり、実体性がないというもののあり方。逆に「空」であることによってすべてが成立する根拠にもなる。それはこの原語が数学の「ゼロ」を意味するように、この単位シューンヤがあることによってものの計測が可能となる座標軸の中心に位置するからである。「空即是色」をひっくり返して「色即是空」というのはまさにそれである。空とは、求めてやまない悟りのような絶対的なものが、どこかにあるという思考を破壊する。しかし一方では、逆に「空」であるからこそ悟りもあり、すべてが成り立つと言うことを意味している。空とはそのような根源的なものの在り方なのだ、ということを宣述する。そして「般若」はそれを見通す知恵なのであり、これが経典の主題となる。
注5五つの構成要素
五蘊:蘊は集まりのこと。スカンダの訳。五つは物質的要素と精神的要素に大別される。前者は色蘊で、対象を構成している感覚的・物質的な要素を総称する。後者は主体の意識を構成する精神的要素で、受蘊(何らかの印象を受け容れる、感受作用)、想蘊(イメージを作る表象作用)、行蘊(能動性をいい、潜在的に働く、意思作用)、識蘊(具体的に対象をそれぞれに)区別する認識作用。このように分別する考え方は、仏教の最初期から一貫する。
以下島田裕巳著「般若心経」より
注;6無苦集滅道
四諦  四つの真実 四つの真理
苦諦  生きる上でさまざまな苦に遭遇  集諦  苦の原因を明らかにする
 滅諦  煩悩を断ち悟りに至る    道諦  悟りに至り、心の平安を得る方法
 道諦は「八正道」という形で示される。仏教の修行者は四諦の教えに基づいて修行を実践。「般若心教」は四諦そのものを否定する。
注7:無智亦無得 以無所得故
般若心教は智慧をも否定する。何かを得ることもない。
注8:空から一転、真言へ
故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪  是無上呪 是無等等呪
呪 密教で説かれる真言のこと 般若波羅蜜多=真言
空や無が説かれていた「般若心教」の最後の部分において一転して密教にかかわる教えが説かれる。 大乗仏教が密教に行き着いた(空海の解釈)
注9: 即説呪曰 羯帝羯帝 波羅羯帝 波羅僧羯帝 菩提 僧莎訶 般若心経 
サンスクリット語の音写そのままの形。「至れり 至れり 彼岸に至れり 彼岸に到着せり 悟りめでたし」(渡辺照宏訳)
この訳文からすれば悟りに至ったことのこのうえないよろこびが表現されたものととらえることができ、「般若心教」の全体の趣旨とは合致している。そして、改めて最後に教題が掲げられている。 「般若心教」は短い教文だが、その内容は複雑で、重要な教えを含んでいるのである。
注10空の衝撃
大乗仏教は「空」を説くことで人々に大きな衝撃を与えた。いったい空とはどういうことなのか「般若心経」では具体的に説明されているわけではない。すべては「空」だと言い切っているだけでその意味が事細かに説明されているわけではない。けれども、空だと言い切られると、どこか気持ちが吹っ切れる。細かなことをいちいち気にしているのが無駄に思えてくる。それだけでも、効果のほどはおおいにある。(一種のショック療法)
注11空の哲学
龍樹の「中論」は空の哲学を構築した仏教の理論として高く評価されてきた。重要なのは、あるものが存在しているというとき、関係性を重視する点にある。そこには大乗仏教が形成されるまで、部派仏教のなかで議論されてきた因果や縁起などの考え方が前提になっている。私という存在を考えてみたとき、表面的には私という一個人が実在しているかのように見える。ところが私は私だけで存在しているわけではない。周囲にはさまざまな他者が存在し、私がどういった存在であるかを規定しているのも、そうした他者との関係性である。つまり、私は一つの実体ではなく、さまざまな関係性が作り出した一つの点のようなものだ。関係性に変化が起きれば、そのあり方はすぐに変わってゆく。今の私は、過去の私とは違う。未来の私がどういったものになるのか、自分でそれを決めることはできない。龍樹は、一つの存在が関係性にすべて依存していることをさして「空性」ととらえ、それを基盤に独自の空の哲学を展開していったのだ。(龍樹ナーガルジュナ2世紀インド大乗