読書余滴「残酷人生論」池田晶子著 毎日新聞社 2011・03・04 戸張道也  文筆家。1960年東京生まれ。慶應義塾大学文学部哲学科卒。専門用語によらない哲学実践の表現を開拓。以下インターネットの対話記事から(1)(要約)http://www.nttcom.co.jp/comzine/no011/wise/index.html
生き方の本は「こういうふうに生きれば、こうなる」という人生論になってしまうことが多いんですよね。でも哲学は、基本的に、そういうものではありません。「そもそも人が生きている、それはどういうことなのか」を考えるのが「哲学」。
哲学がブームだという背景には、「楽に生きよう」「より良い生活をしよう」という時に、哲学書を読めば何とかなるんじゃないかという期待があるようです。でも、そうじゃない。「楽に生きる」以前に、そもそもその「生きる」ってこと自体をよく分かっていないわけですから。「一体どうなっているのか」という素朴な問いから哲学は始まります。
つまり哲学とは「考える」ことです。
「今ここにいる」という、最も当たり前で単純なことを、いかに分かっていないかに気が付けば、まず「なぜだろう」と考えますね。そうすると、生き方に対する考え方も当然、変わるはずです。
「何も分からない」一方、「今ここにいる」ことは、厳然たる事実なわけですから、そこに一瞬一瞬の確信が生まれます。自分が何も分かっていないことを知っている「無知の知」の力強さが出てくるわけです。
「考えれば得をする」と思っている方も多いかもしれませんが、それは間違いです。考えることは、世の中の損得とは全く別のこと。考えることで、本人は納得と確信を持って人生を生きられるわけですから、それが最も重要なんです。
みんな「良く生きる」ことを考えようと思っていますが、哲学は「生きる」ことが謎だというところから問いかけるわけです。
「みんなが思い込んでいて、それについて考えようとしないこと」に対して「本当にそうなの?」と水を向けるような作用はあります。そうやって世の中の思い込みを見抜くことができれば、人生を生きる上で強いことです。
「分からない」ことに気付いて、考えようとすべきなのに、人は「分かる」ことばかりを求めているんです。
今の情報化社会は、言葉が非常に浪費されてしまっています。
本当に伝えたいことは、自分の足でその場に行ってでも伝えていました。そのくらい言葉には価値がありました。
「疑うからこそ、信じることができる」。疑い続けて、確信を得る。そこで、初めて信じることができるわけです。哲学が宗教と異なるのは、宗教は疑う前に信じることが必要な点です。つまり哲学すること自体が、より良く生きることなんです。
「かしこい」というのは知識の問題ではありません。勉強して、知識を詰め込むのではなくて、一つの事柄を自分で疑って、吟味して、納得して、確信を持つことが「かしこい」ということではないでしょうか? あえて言えば、人生は、かしこくなる過程。それが良く生きるということ。 (web NTTコムウエアより)次は「残酷人生論」より
1プロローグ 疑え
この書は単なる思考の書である。しかし、この、「たんなる」の、実にいかに困難であることか。考えることは、悩むことではない。
「わからないこと」を悩むことはできない・「わからないこと」は考えられるべきである。悩むのではなく考えるということが、いかほど人を自由に、強く、するものか。
2「わかる」力は、愛である 言葉と対話
(1)「わかる」が「わかる」であることをわかっていなければ「わからない」と言うことさえできないはずだ。
(2)意味はどこにあるのか
「わからない」と言うとき人は「意味」がわからないと言っているのだ。では。「意味」とは何か。そう、意味は、物理的時空に関係なく、いまのここに在るということ。これはもう驚くべきことだ。意味の宇宙は、物質の宇宙とは、明らかに別なのだ。「わかる」のは自分の力ではなかった。「わかり合う」のは、人ではない、言葉である。言葉同士が、分かりあうのである。このような魂の希有な邂逅のことを西洋では対話(プロローグ)と言う。
(3)何を「わかる」のか
では「わかる」と「信ずる」の関係如何。確信は何をわかるのかというと、ほかでもない、自分はわかっていないということを、分かるのである。(ソクラテス「無知の知」)ところが、このわけのわからないこと、わかるはずのないこと(自分であること 生きて死ぬこと)をわかったと思っているのが信仰。
(4)「わからない」から考える
「無知の知」、あれは、人類の認識の上がりではなく、常なる振り出しなのだ。「わからない」と「わかる」からこそ、人はそれを「知ろう」と努力するのであり、・・・略
(5)わかる力は愛である
しかし、本当言うと、わからないものをわかることができるのは、実は、「わかろう」という不断の意志でしかないのである。ところで、「わかろう」という意志、これは何か。言うまでもない、優しさである。わかる力は、愛である。えてして人は気づいていない、真の知力とは、愛する力であることを。
2賢くなれない「情報化社会」知識と情報
(1)何のための情報か
情報によって満たされた生活とは、・・・・もとが空疎な生活が、外からの情報で、ほんとに満たされたことになるのだろうか。
情報によって動き出す知性とは、情報によらなければ動き出せない知性である。外からの情報なしでは考えられない知性が、ほんとに賢いことになるのだろうか。
より早く、より多く、より価値ある情報を人が使いこなせるようになることと、その人が「善い」魂であるということとは、関係ない。
(2)情報は知識ではない
情報は外から与えられるもので、知識は自ら考えて知るものだ。人は多くの情報を知っていることによって。いったい「何を」知っていることになるのか。
(3)「考え」は誰のものか
たとえば数式、あれは誰のものか。発見者のものか。或る思想体系、それはそれを考えた人のものか。としたなら、なぜ他の人はそれをともに考え理解することができるのか・:;「考え」は誰のものでもない。「考え」はそれ自体が普遍である。
(4)なぜ情報が害悪になるか。
情報とは、つまり損得なのだ.お金が儲かるとか、仕事に役立つとか、生活が快適になる。生きる上でのあれこれがよりよくなる、という、そういうことなのだ。しかし問題は、その「よい」という意味だ。生きることそのものの意味が、先に知られていなければならない。
さて生きることそのものの意味を知るための思考の在り方、これを「考える」と言う。そして考えて知った事柄を「知識」と言う。情報は外から入手して受けて流すものだが、知識は自ら考えて知る以外、入手する方法はない。あれこれの情報を取捨選択することで、「考えている」と思うのは間違いだ。
(5)真理だけが価値である
自分が本当に知りたいと希っていることだけを、まっすぐに問い、考え詰めてゆけばいいのだ。そう情報の洪水の中で溺れているには、我々の人生はかなり短いのではないか。以下続く各章の表題
3まぎれもなくここに居る私という謎
4人生を自由に窮屈にしないために 自由と善悪
5信じること、疑うこと 「神」と宗教
6人生最高の美味を考える 死とは何か
7あなたがあなたである理由 魂を考える
8幸福という能力 魂の私を生きてゆく
エピローグ 信じよ
人がなにかを疑い、その疑いから考え始めるためには、そこになにが必要なのか。古典的には、「驚き」。懐疑とあらゆる思考に絶対的に先立つもの、それは在「存」である.それではいまこそ、人生とは、何ぞや。たったひとこと、生(ある)と死(ない)と生成(なる)。以下にさらに要約しました。
1著者は、考えることを切に勧める・
2考えることは無知であることの自覚から始まる。
3情報は真理ではなく、損得である。
4損得だけにかかわるには人生は余りに短い。
5「驚き」と「懐疑」の魂を持ち続けよ。
6人生とは、生、死、生成である。
7自分が居て宇宙がある不思議・神秘を感じられているならそこに答がある。

この説明が不要になったら、長方形の境界をクリックして選択した状態で、Deleteキーを押して削除してください。